Readings|一句鑑賞
ひだまりのあなたを撮ればどれにも鴨
「ひだまりのあなた」という措辞がまずは美しい。「ひだまり」は、陽の光がやわらかく満ちた、穏やかな空間そのものを指している。「わたし」はそのぬくもりにつつまれた「あなた」を撮る。never young beach「お別れの歌」のミュージックビデオを思わせるような、何気ない、それでいて過ぎ去ってしまった幸福と諦念の気配がある。
一句の眼目は、副詞「どれにも」にあるだろう。言い換えるなら「どの写真にも」だろうか。「わたし」はシャッターを何度も切り、そのたびに異なる表情の「あなた」が写る。そして、そのどれにも変わらず「鴨」がいる。「どれにも」の反復は、写真を一枚ずつ見返してゆく時間までも読者に想像させる。
「鴨」という季語の選択も効果的だ。鴨は白鳥のようにドラマチックでも、鷗のように孤高でもない。水辺にごく普通にいて、群れ、浮かび、餌をついばむ鳥である。そのありふれた日常性が、「ひだまりのあなた」の穏やかな幸福によく似合う。だから「どれにも鴨」は可笑しいだけではなく、その日の風景が、写真の一枚一枚にいつも寄り添っていたことを示している。
「わたし」が撮ろうとしたのは紛れもなく「あなた」である。一回性のある「あなた」だ。しかし、結果的に写真に残ったのは、「あなた」だけではなかった。ひだまりも、水辺も、鴨も、その日の空気感までもが写り込んでしまっている。だから掲句は、「あなた」を撮った記憶である以上に、「あなたのいる世界」を撮った記憶でもある。そして、「どれにも鴨」という少し出来すぎた結びは、とある幸福な記憶が現実を少しずつ均していく、その不確かさをほのめかしてもいるだろう。
大塚凱『或』(2025年、ふらんす堂)より。
2026年8月7日 弓木あき