Readings|一句鑑賞
愛確か芯まで使ふ春キャベツ
上五「愛確か」という抽象からはじまる。ここでは何にたいする愛かは語られない。恋愛とも家族愛とも、友情とも限定されずに、ただ「愛確か」と宣言される。その潔さが、読みの空所を残している。「愛」という、ともすれば観念に陥りやすい語は、「確か」と結ばれることでかすかな緊張感や切実さを帯びる。
そして、その愛の確かさは「芯まで使ふ春キャベツ」という中七下五によって具現化される。「春キャベツ」はやわらかく甘みがある。それを「芯まで」余すことなく「使ふ」ことは節約のためでもあるが、掲句では、それ以上に目の前のものを丸ごと受容し、大切にいつくしむ一種の態度といえるだろう。「食べる」でも「いただく」でもなく、「使ふ」という動詞を選んだことも、愛を一回性の受動ではなく、能動的な営みととらえていることのあらわれだろうか。
「芯まで使ふ」という具体が、上五の「愛」を観念に終わらせず、日々の暮らしの実感へと引き寄せている。愛とは、おおげさな言葉や身ぶりではなく、春キャベツを芯まで使うという、ごく小さな暮らしの営みのなかで確かめられるものなのだと。しかし「愛確か」と大きく振りかぶっておいて、その具体が台所の春キャベツへの手つきにあったとは。この落差は、少しだけ可笑しく、その可笑しみのさきにたしかな説得力が残る。
中矢温「俳句個人誌なるほど 創刊号」(2025年)より。
2026年7月27日 弓木あき