弓木あき

Readings|一句鑑賞

どこにゐても虹を教へてあげるから

/藤井あかり

一読して明るい句なのに、なぜか泣きそうになってしまう。

まず「どこにゐても」という歌いだしから、読み手は多くを想像してしまう。これは「あなたがどこにいても」とも、「わたしがどこにいても」とも読める。遠く離れた場所にいるのかもしれないし、もう二度と簡単には会えない境遇なのかもしれない。ふたりの所在が曖昧なままに開かれているからこそ、一句は時間や距離を越えた「わたし」から「あなた」への切実でやさしい呼びかけになる。

また「教へてあげるから」の口語には、親しさが感じられる。幼い子どもへ言うようでもあり、恋人や大切な友人へ向けた口約束のようでもある。そして「あげるから」は単にやさしいだけでなく、切実な何かを帯びている。虹はすぐに消えてしまうものだから、見つけたらすぐに「あなた」に教えたいのだろうか。その一瞬の美しさを、「あなた」と分け合いたいのだろうか。

「虹」は夏の季語だが、掲句ではただ空にかかる気象現象としてではなく、離れた場所同士をつなぐものとして機能している。どこにいても、「わたし」は何度でも虹を見つけるだろう。そしてその虹の存在を「あなた」に教えることで、ふたりのあいだには、はかなくもたしかな橋がかかるのだ。

そして「から」以後の省略が効いている。「教へてあげるから」のあとには、本来の発話であれば何か言葉が続くはず。だから大丈夫、だから忘れないで、だから泣かないで、だから生きていて。しかしそうした言葉は省かれたままに句は閉じる。「から」の未完が、読み手の想像の余白を作り出している。

なぜ泣きそうになってしまうのか。それは、その美しさを共有したい「あなた」とのあいだに、どうしようもない距離の気配があるからだ。そして、それでも手を伸ばしつづけようという、「わたし」の切実な意思を感じるからだ。

藤井あかり『メゾティント』(2024年、ふらんす堂)より。

2026年6月22日 弓木あき