ひとり暮らしを始めて、アボカドが果物であるらしいと知った。スーパーでアボカドを買う時、セルフレジで生鮮食品のページを探してもキャベツやトマトの並びには見つからなくて、ふしぎに思って次のページを見るとみかんやバナナと一緒に果物として分類されていて驚いた。
長年の夢だったひとり暮らしは期待していた以上に楽しいけれど、それと同時に、こんな物価高で税金も高くて、このまま継続していくのには無理があるのではないか?と、不安にうっとうしくつきまとわれる。
アボカドはひとりで丸ごと食べるには少し重た過ぎるので、いつも半分だけ食べることにして、もう半分は冷蔵庫に戻す。ただ、どれだけ入念にラップをしても、次の日に取り出すときには断面がすこしだけ黒くなっている。だいたいはそのまま食べているけれど、どうしても気分はちょっと下がって、そんなとき、誰かと一緒に暮らしていたらいつも見た目のいいアボカドを半分ずつ食べられるのにな、という考えが頭をよぎる。
けれど、わたしは今の生活をとても気に入っている。なんとか滞りなく暮らしを成り立たせている自分自身のことも、東京にしては騒がしくない近所のことも、好きな時に好きなものを食べられる自由さも、わたしが思うままに飾りつけたこの6畳の王国を心の底から気に入っている。
尾崎放哉じゃないけれど、「アボカドを割っても一人」では決してない。爽やかな秋の日に、ぐるりと一周包丁を入れて、種がどちらの半分についてくるかなんてコンマ数秒間かんがえて、当たった時にも小さな喜びを声に出すことはないまま残りを冷蔵庫にしまう。
ひとりで暮らすことは、アボカドを半分に割ることであり、アボカドの種の丸みに沿うようにぴっちりとラップをはわせることであり、それでも次の日に端から黒くなり始めたもう半分を食べることである。2日目の断面を見るたびに、この部屋は間違いなくわたしだけのもので、わたしが腰を据えてひとりで暮らしていることを再確認する。
この日々が続いていく嬉しさが、自由が、きれいなアボカドを食べられることよりもわたしが今選択していることなのだ。アボカドを割る「なら」、ひとりがいいに決まっている。